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枕がないと辛い

昨日枕なしで寝たら首が痛くなった。

枕カバーを洗ってそれをつけるのが面倒に感じてそのまま寝たら。。。結構痛いの。

 

布団では枕の代用はできない。

でもたまにいるよね。タオルをたたんで枕がわりに使うっていう人。

 

猫とか犬とか鳩とかもうまーく寝るよね。

前足をたたんで顔を少しのせるような形?

あれで首とか痛くならないのなかな?

鳩なんて首を変に動かしてるから丈夫なんだな。というかどこまでが首なんだ!

 

 

動物と比べてもいみないけど、枕は大事。

人にとって大事。

待つ、真空時間

わたしはいま待っています。

企業への就職の合否の結果を待っています。

連絡される日は特に指定がなく、大型連休に入るため来週になる恐れもある。

 

私はその連絡待ちをしているところにいきたいと思っています。休日やお給料という現実的な条件も良く、働く人の雰囲気も穏やかだったからです。

 

さて私はこの待っている時間に何をすれば良いのでしょうか。引き続き新しい企業に応募すべきだと感じます。しかし、いま待っている企業程の良い条件がないのです。

 

それに他に内定も1つ出ているので、新しく探す緊急性はさほどないのです。

就職活動は雲をつかむような、それでいて生活に直結するシビアなものなのであまりやりたくはない。できれば御免被りたい。

 

この待つ時間。目の前のコーヒーの表面がキラキラと赤電球の光を受けている。

逃げだしたい。

私はそこで働くことができるのか、できないのかはやく知りたい。

なんとか手かがりだけでも増やしたい。

曖昧な今に、意味をつけて欲しい。

 

 

 

そうでなければ、ベッドに逃げて

時間を殺してしまいたい。

麻酔のような退屈さ

眠気に勝る日常がありません。

 暇人、という言葉がありますがこれは状態ではなくれっきとした(肩書き)であると思います。

 

暇な人がいる、というのは具体的にやるべきことがあるか否かではなく心の在り方。

やることがたくさんあっても暇人。

やることがなくても暇人じゃない。

そういことは全然あり得る。

 

いま私は暇人の称号を手に入れました。

名刺にそっと(暇人)と入れて欲しい。

 

 

不幸だけど幸せです

不幸だけど幸せです。

彼女もいないし、無職だし、喉痛いけどこうして色々妄想してblogをかけているから?

自問自答するがちがう。

 

幸せと感じるから幸せなのである。

感覚ということに理屈はなくて、事実も関係ない。音楽と似ていて心地よい、幸せだと感じられるか否かだけ。

つながっていること

そーなんだ教通信です。

その本質は受け入れることです。

 

受け入れるとはあっさりしていますが、とても奥深い内容があります。

受け入れるとは、許すとはちがいます。

それは評価を下しているからです。

 

受け入れることは評価とはちがいます。

ものごとをありのままに眺める。

ああ、怒っているなあ、許せないなあ、楽しいなあなどなど様々なことをそのまま認識する。

 

 

この態度は、大きく生き方そのものにまで通じます。生きている私という小さな点は様々なものの間にあるけど、そのひとつひとつに反応し評価して感情を加えていくのか。

それともそうした様々な事柄について、受け入れながら生きていくのか。

どちらが賢明なのか。

どちらが長い人生を生きやすくなるのか。

それも人によるでしょう。

 

 

 

人によるというのは、多様性ということに気がつくこと。人はそれぞれ考え方や価値観があり、だからこそ社会がまわっているんだと思う。同じものばかりだと何かあったときに、バタバタと崩れるでしょう。

 

さらに多様性というのはなにも他者に限ったことじゃない。内面にも様々な変化が流れているはず。

 

 

 

そしてこれが今回の一番の気付きだけど、

私も他者も社会も世界も多様性に満ち溢れているということ。

私の内面に自然が広がっていること。

内なる自然と、そとにある自然は同じで繋がっているということ。

 

 

これはいままで、他者に対して異物感があった世界観とはかなり違う。

少なくとも内面と外側は繋がっていて、その隔たりは妄想だった。

 

 

 このことに気がついたのは言葉による対話がきっかけでした。言葉にするっていのは2つの方向に向いている。話している相手と、私自身。さきほどからいっているように、私と他者は繋がっているからほんとうは自己と他者を分けるのは無理がある。

 

言葉にする過程で整理される。

相手の反応によっては傷ついたり、励まされたり、悲しんだり、新しい視点に気がついたり。

 

 

内面のモヤモヤを吐き出す必要は常にある。ここまで情報が溢れていると、捨てていかないとパンクしてしまう。

なにもしない時間、話す時間。

どちらも必要。

 

 

面接にいくと感じること

今日は模擬面接だった。

面接ではいままでの自分のこと、そしてこれからのことを自分の口で伝えなくてはならない。大人への通過儀礼的な難しさを感じている。

 

いままでのことを振り替えろうとすると、

考えたくない気持ちがつよくなってしまう。

自分を責める気持ちやネガティブな思いが体中を支配しそうになる。これがダークサイドの力か。

 

そんなときはあまり抵抗しないほうがいい。

余計な力が入るとさらにそのパワーが増える。ぐっすりと寝て忘れよう。どうせ忘れることはないし、ネガティブの力を意識しながらできることをやればいい。調子が悪いときはある。

 

 

信じることが挫けそうになる。

たしかなこととして過去の事ばかりに目がいく。受け止めながら、前向きに行動するだけだ。洋服や一人暮らしをまずはご褒美に。言い知れぬ絶望感と孤独感はこうやってことばやらにしていけばいい。言い知れぬエネルギーともいえる。

 

 

 

河合隼雄さんも言っていた気がする。

自分も責めるもう一人の自分。その自分も正義感が強くエネルギッシュなだけなのだ。自らのことを信じているからこそもっとできるのではと考えてついつい責めてしまう。付き合い方はそれぞれ。

自分とはなにか(タモリの教え)

講演大王という番組でタモリが話していた内容。

 

自分とはなにか。

 

人は自分とはなにかということを考えるときに2つの軸をもうける。

今現在での横の繋がりと、過去や未来という縦の繋がり。

 

横の繋がりでは今のことで、

私とは家族がいて、友達がいて、仕事があって、趣味にこれをしてという要素である。

 

過去や未来というのは、私の先祖は医者で、子供は社会人になりという要素である。

 

 

これら縦と横の様々な糸の網目をもって、

わたしとはなにかを説明するのが一般的である。しかし、こうした糸はあやふやであり、それらがほんとうにあるのか、ないのかは非常に曖昧である。友達はいなくなることもあるし、もちろん仕事も同じではないかもしれない。先祖や子供だってそれぞれ偶然に巡り合わせたものである。

 

 

いずれもわたしとはなにか、を考える要素にはなっても決定的なわたしに迫ることができない。

 

 

なぜこのようにわたしとはなにかということを考えるのか。

キエルケゴールは、わたしとは精神である、

精神とは自由である、自由とは不安であるといった。

 

つまりわたしとは外から決められることができず内面的に自由に決められる存在であるから、不安定で、不安がつきまとうのである。

 

 

ひとは不自由を求める存在である理由がこれであり、差別を産み出す元凶にもなっている。わたしは何であるのかではなく、逆のアプローチ。何でないのかを決めるために、わたしとは違うものをたくさんつくる。

わたしは貧乏ではない、障害者ではない、年寄りではない、高卒ではないなど。しかしこれもおなじことである。

 

 

 

 

 

以上が、わたしとはなにか、に関するタモリさんの一部講演内容。

 

仕事を選ぶときにでもつきまとうこの不安はたしかにこの理由が大きいと感じる。

大学時代、わたしと向き合い、自由に決めていい存在であることを考えて多くの人とたくさんのことをすべきだったかもしれない。

いまそれを行えて感謝している。

 

たしかにそとに規定できるものはない。

精神的に自由に考えられるわたしという存在はメディアである。フィルターである。

 

外ということに自ら働きかけて、また

自己に戻る。