面接にいくと感じること
今日は模擬面接だった。
面接ではいままでの自分のこと、そしてこれからのことを自分の口で伝えなくてはならない。大人への通過儀礼的な難しさを感じている。
いままでのことを振り替えろうとすると、
考えたくない気持ちがつよくなってしまう。
自分を責める気持ちやネガティブな思いが体中を支配しそうになる。これがダークサイドの力か。
そんなときはあまり抵抗しないほうがいい。
余計な力が入るとさらにそのパワーが増える。ぐっすりと寝て忘れよう。どうせ忘れることはないし、ネガティブの力を意識しながらできることをやればいい。調子が悪いときはある。
信じることが挫けそうになる。
たしかなこととして過去の事ばかりに目がいく。受け止めながら、前向きに行動するだけだ。洋服や一人暮らしをまずはご褒美に。言い知れぬ絶望感と孤独感はこうやってことばやらにしていけばいい。言い知れぬエネルギーともいえる。
河合隼雄さんも言っていた気がする。
自分も責めるもう一人の自分。その自分も正義感が強くエネルギッシュなだけなのだ。自らのことを信じているからこそもっとできるのではと考えてついつい責めてしまう。付き合い方はそれぞれ。
自分とはなにか(タモリの教え)
講演大王という番組でタモリが話していた内容。
自分とはなにか。
人は自分とはなにかということを考えるときに2つの軸をもうける。
今現在での横の繋がりと、過去や未来という縦の繋がり。
横の繋がりでは今のことで、
私とは家族がいて、友達がいて、仕事があって、趣味にこれをしてという要素である。
過去や未来というのは、私の先祖は医者で、子供は社会人になりという要素である。
これら縦と横の様々な糸の網目をもって、
わたしとはなにかを説明するのが一般的である。しかし、こうした糸はあやふやであり、それらがほんとうにあるのか、ないのかは非常に曖昧である。友達はいなくなることもあるし、もちろん仕事も同じではないかもしれない。先祖や子供だってそれぞれ偶然に巡り合わせたものである。
いずれもわたしとはなにか、を考える要素にはなっても決定的なわたしに迫ることができない。
なぜこのようにわたしとはなにかということを考えるのか。
キエルケゴールは、わたしとは精神である、
精神とは自由である、自由とは不安であるといった。
つまりわたしとは外から決められることができず内面的に自由に決められる存在であるから、不安定で、不安がつきまとうのである。
ひとは不自由を求める存在である理由がこれであり、差別を産み出す元凶にもなっている。わたしは何であるのかではなく、逆のアプローチ。何でないのかを決めるために、わたしとは違うものをたくさんつくる。
わたしは貧乏ではない、障害者ではない、年寄りではない、高卒ではないなど。しかしこれもおなじことである。
以上が、わたしとはなにか、に関するタモリさんの一部講演内容。
仕事を選ぶときにでもつきまとうこの不安はたしかにこの理由が大きいと感じる。
大学時代、わたしと向き合い、自由に決めていい存在であることを考えて多くの人とたくさんのことをすべきだったかもしれない。
いまそれを行えて感謝している。
たしかにそとに規定できるものはない。
精神的に自由に考えられるわたしという存在はメディアである。フィルターである。
外ということに自ら働きかけて、また
自己に戻る。
短歌を担ぐ
内定が決まり幾つかの選考を乗り越えると社会人が始まる。一人で食べて寝ているだけでは社会人とはいえない(そりゃそうだ)。
ゲームや動画だけでは時間がありすぎる。
英語の勉強も2,3時間。
穂村弘さんの本はおもしろい。
短歌がおもしろい。
短歌って言葉の流派みたいなものか。
言葉のもつ質感に注目して使う作法。
言葉を投げたり引っ張ったり、くっ付けて爆発する様子を見て笑ったり驚いたり。
小さく使って泣いたり。
人間は脳味噌が大きくて超ハイテクコンピューターなので使いたくなる。
短歌をよむことはすぐにできる。
筋肉トレーニングと同じ、どこでも出来てほとんどタダ。
谷川俊太郎さん俵万智さんとか斉藤斎藤?さん?くらいしか知らないけど読んでみようかな。
谷川さんのものは読んだことがあるが、自伝を読んで興ざめして以来読まなくなってしまった。遠くの宇宙を連想させるものから異性関係という、すこしむずむずするものまで。
現代というキーワードが入ってしまった、
何の目的もなくいい加減で格好つけた雰囲気のものがすき。
壁を作るな、質問をしろ
対話をすると理解が深まる。
そのためには相手や自分自身が話しやすい環境を作らないと、考えや意見は出てこない。
話しやすい環境をつくるには、こちらがまず(おーぷん)になる必要がある。
おーぷんにするには、色々なことをまず受け入れなければならない。
(そーなんだ。)
とまず受け入れること。
そーなんだ教があるらしい(ないよ)
人は受け入れられて、興味を持たれると心を開いて意見を言いやすくなる。反対に拒絶されて、無関心のレッテルを貼られたら誰も何も言いたくなくなる。
それは自分も他人も同じ。
苦手意識、恐怖心を感じたらまず
(そーなんだ。)受け入れる。
しんどい気持ちや印象の存在をまず認める。
それから興味をもって聞いてみる。すると曖昧なものから少し具体的なことがわかり、理解が深まる。
理解した上で、私にとっては〇〇だから××という考えが整理される。
私自身、より深い理解を妨げる言葉を無意識に使っていた。
例えば(体育会系のノリが苦手)と常々言っていた。しかし具体的体育会系のノリの何が苦手なのか考えていなかった。
例えば、盛り上がらないといけないという雰囲気が嫌なのだ。たとえ盛り上がらないとしても、落ち着いて言葉を交わす時間があってもいいのではないか、と。
たしかに、そうかんがえると
排他的なことが嫌だということに気がつく。
盛り上がること自体は嫌ではないが、無理矢理そうしようとしていて、そのような雰囲気作りをしないと排除する傾向が嫌なのだ。
このように質問を重ねることは、深い理解に繋がる。質問の大切さがこの文書で言いたかったことなのかもしれない。
ゆうこりんとロシアで中国人
人を矢印に例えてみよう。
あなたの思考や視線はどこを向いているのか。
矢印が自分を向こうとするとキツい。
曲がる角度が急すぎて折れてしまうかもしれない。矢印は、矢印でどこかにむかうようにできている。
アプオリ。もともとあるもの、という意味。
そこになにかがあったのだ。
なにかをつくることもできる。
あなたもなぜか、生まれたのだ。
ゆうこりんが離婚して、かっこいいことを言っていた。(先を考えると不安になるから考えないようにしている。いましか考えないし、いつも「なんとなかなる!」と言い聞かせている。)
泣けた。
これは泣けた。
ゆうこりんは子どもふたりを育てている。
きっとゆうこりんは今後売れるよ!
あともうひとつ。
ロシアではソ連崩壊にともない人口流出などもあり、中国人労働者が増えているとのこと。野菜を売っている人のインタビューでは、(中国で売るより10倍くらいロシアの方が稼げる)とのこと。
そうなんだ。
労働はお金を稼ぐ手段なんだ。
ばらばらエッセイ。
最近ライフプランをつくった。
すると私の婚約者はいま27歳くらいのひとじゃないと子供を産めるのが8年以内!
わたしはもうそのときはあれだよ!
怖いねー