刑罰を考えるよりホームベースの議論が先じゃない?
少年法の適用年齢を18歳未満に引き下げるべきかの議論がでて思い出したのが、
宮台真司さんが唱える、「ホームベース」の考え方。
ホームベースっていうのは「自分を自分でこれでいいのだ!と肯定できる心の拠り所」みたいなニュアンスです(こちらの書評ブログもおもしろいのでよかったら読んでみて下さい
(7)『宮台教授の就活原論』 / 宮台真司 - 書籍大臣は虚構のなかで)
はっきりいって難しいです。ホームベースを獲得することは。そんなのいらねぇよという気すらしてきます。
ただ、「ひとかどの人物になる決意」というのはすこしヒントになるような気がしました。
実は「ひとかどの人物」になるという決意が大切です。決意が本気だと自動的に「スゴイ奴」を探すようになります。「スゴイ奴」を探すとは結局「人を幸せにしまくる奴を探すこと」「利他的な奴を探すこと」に行き着きます。(宮台真司の就活原論p.147)
「利他的な奴を探すこと」。
類は友を呼ぶ。
利他的なやつは、利他的な奴と出会いやすい。
ってことは自分自身が誰かの為に動けばいい。
(少なくとも私は自分の都合を優先ばかりして、逆にしんどい経験をたくさんしてきたように思います。)
ただ、誰かの為に動くとはいえ、何を通じて他人に奉仕するのかは若干選択の余地がある気がします。
でもでもその選択をしたとしても、結局、やりたいこととは正反対のことを強いられるはずです。だからもう大枠で決めたら、他の嫌な事はガマンするしかないのでしょうね〜
だからこそ、なんとなく続けられそうなこと、苦痛ではない事を
継続してみるのがいいのかもしれませんね〜。(それがそもそもわからないけど)
なんかこういうこと書きたい訳じゃなかったのにな〜。