自分とはなにか(タモリの教え)
講演大王という番組でタモリが話していた内容。
自分とはなにか。
人は自分とはなにかということを考えるときに2つの軸をもうける。
今現在での横の繋がりと、過去や未来という縦の繋がり。
横の繋がりでは今のことで、
私とは家族がいて、友達がいて、仕事があって、趣味にこれをしてという要素である。
過去や未来というのは、私の先祖は医者で、子供は社会人になりという要素である。
これら縦と横の様々な糸の網目をもって、
わたしとはなにかを説明するのが一般的である。しかし、こうした糸はあやふやであり、それらがほんとうにあるのか、ないのかは非常に曖昧である。友達はいなくなることもあるし、もちろん仕事も同じではないかもしれない。先祖や子供だってそれぞれ偶然に巡り合わせたものである。
いずれもわたしとはなにか、を考える要素にはなっても決定的なわたしに迫ることができない。
なぜこのようにわたしとはなにかということを考えるのか。
キエルケゴールは、わたしとは精神である、
精神とは自由である、自由とは不安であるといった。
つまりわたしとは外から決められることができず内面的に自由に決められる存在であるから、不安定で、不安がつきまとうのである。
ひとは不自由を求める存在である理由がこれであり、差別を産み出す元凶にもなっている。わたしは何であるのかではなく、逆のアプローチ。何でないのかを決めるために、わたしとは違うものをたくさんつくる。
わたしは貧乏ではない、障害者ではない、年寄りではない、高卒ではないなど。しかしこれもおなじことである。
以上が、わたしとはなにか、に関するタモリさんの一部講演内容。
仕事を選ぶときにでもつきまとうこの不安はたしかにこの理由が大きいと感じる。
大学時代、わたしと向き合い、自由に決めていい存在であることを考えて多くの人とたくさんのことをすべきだったかもしれない。
いまそれを行えて感謝している。
たしかにそとに規定できるものはない。
精神的に自由に考えられるわたしという存在はメディアである。フィルターである。
外ということに自ら働きかけて、また
自己に戻る。