沖縄県米軍基地について報道機関は機能していない!

連日ニュースで沖縄県の米軍基地問題について報道されているが、いつも分かりにくくて中途半端なみずかけ論ばかり。

 

 

米軍基地はなくなれ!

負担なるべく減らすから基地は置かせて!

のやりとりばかり。

受信料で成り立っているところくらいは、もう少し情報を整理して、現状を伝える義務があるのではないか。

 

 

起きている出来事を客観的に記録し、

論点を整理して、

根拠を示しながらどうすべきかくらいまで伝えるべきではないか。

 

 

 

 

知識があまりない私が考えるだけでも以下の論点がある。

 

 

1,軍事防衛の問題

2,アメリカとの政治上、経済上の外交問題

3,沖縄県中央政府という内政、構造の問題

4,憲法の問題

5,住民の被害

 

 

ざっと挙げただけでも5つの論点が複合しており、一つ一つの論点だけでもとても時間の要する問題だと思う。

 

 

完璧な理解には及ばないが、

(よりましな理解)を促すために、具体的な問いをなげかけることはできる。

 

 

1に関して

まず、軍備による防衛が有効がどうか。

米軍基地がいなくなると、他国から攻められたことがある過去の例はあるの?

 

そもそも戦争や攻撃が、軍事費や設備を増やすことによって減った統計データはあるの?

 

 

さらに、米軍である理由はなにか。

防衛力?ほんとに米軍が一位なの?フランスやイギリスは?

そもそも米軍がいる理由が政治的な場合、

お金が目的なの?(日本政府はアメリカに対して米軍基地がいてもらうためのお金を払っている)ならお金だけ多く支払って、出ていってもらうことはできないの?

 

 

 

以上のように、論点を分けても

それぞれの論点を考えると本質的な理由が同じだったり、違う論点がでてきたりと、

考えるべき項目が変わってしまう。

 

 

報道機関として、こうした思考された

論点と仮説をもとに取材と報道をすべきだとおもう。

 

 

 

それをわたしや、みんなでやればいいのかも

しれない。

考える力があれば、できることなはずだから。

勝手に本のタイトルベスト3

第3位:「笑うな」 筒井康隆

これが1位じゃない?と悩みました。まずインパクトが強い。

命令口調なのに「笑うな」というギャップがおしゃれ。

 

山崎ナオコーラの「人のセックスを笑うな」とか、

蛭子能収の「ひとりぼっちを笑うな」とか、きっと使いたくなる単語なんだろう。

 

この言葉を使うシチュエーションを想像するだけでなんかほっこりするのは

わたしだけ?本好き芸人のピース又吉さんも紹介するほどの内容。

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第2位:「ヨーロッパ退屈日記」 伊丹十三

(もう順位の基準が分かんないよ)実はブログのタイトルもここから。

「退屈」ってわりとみんなが共通してもっている感情だと勝手におもっている

(退屈だよね?)。

 

ヨーロッパ→華やかで楽しそう!

退屈→ええーっ!!

みたいなギャップに興味をそそる。内容もオシャレで読みやすかった。

 

ギャップ系のタイトルで言うと電気グルーヴの「メロン牧場〜花嫁は死神〜」

岸田秀の「ものぐさ精神分析もおもしろい。

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第1位:「永遠も半ばを過ぎて」 中島らも

ある意味でこれも「永遠」と「半ば」というギャップ。

ごめんなさい。これは持っていなかったのでアマゾンで買いました。

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おまけ

タイトル微妙作品:「家族の哲学」 坂口恭平

内容の説明が難しいけど、ざっくり紹介。

躁鬱病を抱える坂口恭平さんが「死にたい」気持ちを抱えつつ逞しい妻のフーと、子ども達とのふれあいや幼少期の思い出を書き綴る。漠然と感じる「死にたい」をここまで肉薄して、文字に起こしている精神力と想像力は鬱だけでなく躁の力もある坂口さんならではのエンターテイメントだと思う。つらいときの新しい視点も提供してくれる。

 

内容がとても豊かでつかみ所がない分、タイトルがざっくりしすぎているのでは?

という意味で微妙なタイトル本として挙げた。

確かに内容は「坂口家」が中心とはいえ「死にたい」という漠然とした不安こそが中心的な内容であるからその具体的なニュアンスを加えるべきかと思う。

 

例えば「死にたいけど家族がいます」とか、

「わたしは死にたいがあなたはどう?」とか、

「『死にたい』を考えてみた」とか。

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おまけがメインになってるじゃん!

ナムジュンパイク

ナムジュンパイク展いってきましたー。

ビデオアートというかっこいい名前通り、作品?というかインスタレーション?をたくさん出されています。

 

モニターを組み合わせた門やロボット、

仏教的な東洋思想にも造形があり釈迦をモチーフにした作品も多数。

 

東西、ヨーロッパとアジアの混合概念としてのユーラシアという、ボイスとの共作も晩年は取り組む。

 

 

 

一番感じたのは、時間のこと。

ああいった、抽象的で、役に立たないものをつくる時間感覚ってこどものようなのかと考えた。体を動かしながら、考えているけど、決して言葉とか目的を持たない行為。物としてそこにあるけれど、ぼくらはそれを前に鑑賞する。きれいだと感じる以上の想像が生まれる。

森のようなところにモニターがならべられ、果実のように吊るされている。赤青黄といった原色の映像が流れている。

こんな光景になにもできることはない。

そこにある絶対的な存在。

 

 

鑑賞者になれる空間。

そういう意味では、自然に近いのかもしれない。

そもそも人が自然の一部であるとすると、その言葉、行為、作品もその延長であるのは当然だった。でももちろん、それだけが自然でも人間でもないから簡単にはいかない。

 

とにかく、お金にまつわる欲望は根っこにあって、視覚もろもろに過剰に訴える、役に立たないものをみるととても癒される、

ということが言いたかったのです。