崩壊家族15年ぶりに家に帰る(その2)

といことで、15年ぶりに実家に戻り

そのままホテルで一人、4泊しました。

まさかこんなことになるなんて。

 

家族と自分と向きあえたかわからないですがわかったことがいくつかありました。

 

 

 

特定の人に依存していること。

 

いきること、無理せず生活できる方法を考えなさすぎたこと。

 

 

がかなりでかかった。

 

 

でも生きるうえで、

会話しないとつらいし、結婚のことも考えると仕事選びもさらに迷うね。

でもでも、まず自分が生きられないと始まらないかー

 

 

まとめ。

A依存しているひとがいる

B生きることがベース

C会話や格好つけることもしたい

 

 

普通ですね。

不安の呪文が流れてくる

さあきたぞ。

あの祭りがやってくる。

女人禁制で裸の男達がぞろぞろ町中をさ迷う。大きなでんでん太鼓を手にもって

(はーたらけ。そら、はーたらけ。)

と唱える。

道中老人等によるお布施によって男達の喉の乾きと空腹を満たされる。

 

苦しい鎌を振りかざし、子供たちは

雨乞いをはじめる。

取り残された女達はホールで花札やお酒を酌み交わす。はだけた浴衣をそのままに股を広げて悪口を言い合う。殴り合いもする。相撲もとる。

 

 

夜と朝が逆転している。

とにかくこんな祭りは早く終わって欲しい。

欲しいもの

ホテル生活一日目。

すこし体調不良気味。

 

体を動かしたいが外に出たくない気持ちがつよく寝てみるがなかなか眠れない。

とにかく絶望してしまう。

頭のなかで妙な呪文が流れてしまう。

からだがうごかなくなる。視界がせまくなる。

 

ほどよいストレスを欲している。

筋トレをする。

 

ちょうどテレビでよそ見運転で命を奪ってしまった加害者のインタビューがながれていた。(何を言っても相手の命が失われたことにかわりない。申し訳ない気持ちでいっぱいだ。)

 

 

共感しているじぶんがいた。

 

 

 

わたしがなぜ罪悪感をもっているのか具体的なきっかけは知っている。

でもそれは表層。出来事は引きがねにすぎない。染み付いている罪悪感がとれない限り、妙な呪文はなくならないだろう。

 

 

罪悪感をなくせばいい、という簡単な問題ではない。彼(罪悪感)のおかげでわたしは、わたしたらしめいてるところもある。

感謝と嫌悪している。

 

 

書き出したときはこんなこと書こうとは思っていなかった。

わたしは会話を欲しているということをメモしたかった。

本を読むのも会話に近い。

こうして文を書くのも会話に近い。

 

坂口恭平さんも書き続けている間は死なない、といっている。

つかれているときにできることだし、これは確かに凄いことだと思う。

 

 

 

(分かる)とは(見え方)が増えるということ

暇すぎるので更新します。

しかしどうして、自虐っておもしろいのかね~。共感しやすくて辛いことだから嫉妬されないし、緊張感もほどよくあるから??

 

 

わかる、わからないって何だろうって

ぼんやり考えることがありました。

それは試験の問題の答えではなくて、

例えば仕事でいつも朗らかに笑って相手が欲しい情報をいつも提供するにはどうしたらいいのか、っていう振る舞いの問題とかのはなし。

 

人柄とか、才能とかっていう答えはなしね。

 

 

結局わからないんだけど、

ひとつには(新しい視点)だと思うのよね。

朗らかにしても、それを支える経験なり考え方が芽生えた出来事が本人にあったと思うのよね。だからその人は朗らかなわけて。

 

 

生まれつきじゃない?っていう答えもなしね。

 

 

 

 

真逆だけど、わからないまま

ただ行為だけを真似するっていうのもいいのかもね。でもぜったいボロが出そう。

わざとやってるよーっていうのは伝わるからね。

 

 

 

 

 

 

結論はない。

崩壊家族15年ぶりに家に帰る(その1)

おはようございます。

世の中いろんなことがありますね。

かわいいかわいいタレントさんが幸福の科学を通じて出家されましたね~

出家も俗世も同じ気がしてしまいますが、宗教を求めている人がいるってことはまちがいないこと。

 

 

 

前置きおわり。

15年ぶりに生家にいきました。

ゴミ屋敷になっていました。

お昼は299円のカツ丼をレンジでチンしてもらいました。

四人そろってゴミ屋敷でカツ丼を食べました。

あっぱれ。

 

 

優しくて無責任な言葉をたくさんかけてもらいつつ、家族四人で話すことができたのはよかった。ほとんど世間話がなくて、めずらしく世間話欲がでたな。

 

 

 

ものをあんなに家に詰め込むのは不安のあらわれか。

廊下には得たいの知れない家電や食料品が積んであり、父親の部屋とその前の廊下は段ボールが目の高さまで積み上げられている。

これは現代アートなのか。

無言のうちに父と母はいつのまにか現代アーティストになっていたのか。

なってねぇよ

 

あんな人々とあんな汚い家で過ごしたのだから、極端にルールや秩序に固執する自分も無理ないなーと実感。

怖くなってパニックだよね。

でも整理整頓しすぎ、しなさすぎもおなじだからね。

 

 

 

もちろん、泊まることは断念。

まああそこは完全に両親の棲み家だった。

ゴリラの巣窟に、人間はすめないよ。

だれがうちの親ゴリラやねん!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

 

 

無職の子供ゴリラはふらふら本を読んだり、

blog更新したり、勉強したり、うんちします。

崩壊家族15年ぶりに家に帰る(そのゼロ)

明日15年ぶりに実家に帰る。

なぜ15年も実家に戻っていないのか。

 

 

私は中2の秋から、祖父母の家で過ごしている。理由は複雑で、私自身学校を休みがちで、兄がすでに不登校で祖父母のところにいっていたので私も祖父母のところへ行こうとおもったのだ。

 

私は所謂、機能不全家族で育った。

機能不全家族とは要するに過剰に子どもっぽい親がつくる家族みたいなものだ。

例えば、パチンコ中毒とか虐待、性行為を子供に見せてしまう親みたいな家庭である。

(やや極端な例であるが)

 

 

私の場合、両親共にこどもっぽい。

特にギャンブルやお酒もやらないが、はっきりいって親としては無責任なところが多いと感じている。

いちばん足りていないのは、家族同士のコミュニケーションとそれを支える愛情という名の感情だと感じている。

 

 

私は親から愛されていると感じたことがない。なぜなら、家にいたときの言葉のやり取りや私が15年間祖父母の家にいたときに対する行動が、あまりにも他人事のようだからだ。実際私自身、しつけのようなものを受けた記憶がない。怒られた記憶もない。

人が人に対してどう思うのかは流動的で、その都度の言動の蓄積で決まるように、私と親への関係も同じである。

 

 

こんな文章を書くとこんな批判が来る気がする。(いつまでも昔にこだわるな、前を向け)や、(過去というのは今のあなたが意味付けられる)という前向きな思考・自由な選択がある思考。

わたしもこの2つの考えを全否定するつもりはまったくないが、前に進むためにいままでのことを振り替える必要があること、そして

自由な選択があることというのは決して無制限ではなく、むしろそうした制限こそ自らの自由を享受するために認めた方がいいと考えるからだ。過去をどう意味付けるのかも全く自由に決められるというわけではないとおもう。

 

 

 

前置きが長くなった。いまの気持ちをつらつら書いていく。

親が嫌で出ていったのにのこのこと戻るのが残念で悔しくて情けないという思いと、自分の弱さやだらしなさを自覚し認めようという葛藤する気持ちだ。

 

上記の通り両親は無責任だとは思うが、私自身もいいかげん一人の人間として責任をもつべき年齢かなと考えてしまうことがある。

世間や他人にとっては私の行動の原因は関係がなく、結果で判断されるからだ。

 

また、兄との関係にもイライラしている自分がいる。これは人間関係すべてにいえる気がするが距離感が近くなると、図々しくなりがちだ。あの人はこう振る舞うはずなのに、どうして思うように振る舞ってくれないの!という具合に。これじゃあもうイライラはとまらなくなる。

 

 

 

 

 

15年ぶりにもどる前日、こんなありきたりな葛藤と人間関係にあえぎながら眠れないだろう。

刑罰を考えるよりホームベースの議論が先じゃない?

少年法の適用年齢を18歳未満に引き下げるべきかの議論がでて思い出したのが、

宮台真司さんが唱える、「ホームベース」の考え方。

再犯防止に向けた刑罰見直し議論深めよ :日本経済新聞

 

ホームベースっていうのは「自分を自分でこれでいいのだ!と肯定できる心の拠り所」みたいなニュアンスです(こちらの書評ブログもおもしろいのでよかったら読んでみて下さい

(7)『宮台教授の就活原論』 / 宮台真司 - 書籍大臣は虚構のなかで

 

 

はっきりいって難しいです。ホームベースを獲得することは。そんなのいらねぇよという気すらしてきます。

 

 

ただ、「ひとかどの人物になる決意」というのはすこしヒントになるような気がしました。

実は「ひとかどの人物」になるという決意が大切です。決意が本気だと自動的に「スゴイ奴」を探すようになります。「スゴイ奴」を探すとは結局「人を幸せにしまくる奴を探すこと」「利他的な奴を探すこと」に行き着きます。(宮台真司の就活原論p.147)

 

「利他的な奴を探すこと」。

類は友を呼ぶ。

利他的なやつは、利他的な奴と出会いやすい。

 

ってことは自分自身が誰かの為に動けばいい。

(少なくとも私は自分の都合を優先ばかりして、逆にしんどい経験をたくさんしてきたように思います。)

 

 

ただ、誰かの為に動くとはいえ、何を通じて他人に奉仕するのかは若干選択の余地がある気がします。

でもでもその選択をしたとしても、結局、やりたいこととは正反対のことを強いられるはずです。だからもう大枠で決めたら、他の嫌な事はガマンするしかないのでしょうね〜

 

 

だからこそ、なんとなく続けられそうなこと、苦痛ではない事を

継続してみるのがいいのかもしれませんね〜。(それがそもそもわからないけど)

なんかこういうこと書きたい訳じゃなかったのにな〜。