つながっていること
そーなんだ教通信です。
その本質は受け入れることです。
受け入れるとはあっさりしていますが、とても奥深い内容があります。
受け入れるとは、許すとはちがいます。
それは評価を下しているからです。
受け入れることは評価とはちがいます。
ものごとをありのままに眺める。
ああ、怒っているなあ、許せないなあ、楽しいなあなどなど様々なことをそのまま認識する。
この態度は、大きく生き方そのものにまで通じます。生きている私という小さな点は様々なものの間にあるけど、そのひとつひとつに反応し評価して感情を加えていくのか。
それともそうした様々な事柄について、受け入れながら生きていくのか。
どちらが賢明なのか。
どちらが長い人生を生きやすくなるのか。
それも人によるでしょう。
人によるというのは、多様性ということに気がつくこと。人はそれぞれ考え方や価値観があり、だからこそ社会がまわっているんだと思う。同じものばかりだと何かあったときに、バタバタと崩れるでしょう。
さらに多様性というのはなにも他者に限ったことじゃない。内面にも様々な変化が流れているはず。
そしてこれが今回の一番の気付きだけど、
私も他者も社会も世界も多様性に満ち溢れているということ。
私の内面に自然が広がっていること。
内なる自然と、そとにある自然は同じで繋がっているということ。
これはいままで、他者に対して異物感があった世界観とはかなり違う。
少なくとも内面と外側は繋がっていて、その隔たりは妄想だった。
このことに気がついたのは言葉による対話がきっかけでした。言葉にするっていのは2つの方向に向いている。話している相手と、私自身。さきほどからいっているように、私と他者は繋がっているからほんとうは自己と他者を分けるのは無理がある。
言葉にする過程で整理される。
相手の反応によっては傷ついたり、励まされたり、悲しんだり、新しい視点に気がついたり。
内面のモヤモヤを吐き出す必要は常にある。ここまで情報が溢れていると、捨てていかないとパンクしてしまう。
なにもしない時間、話す時間。
どちらも必要。
面接にいくと感じること
今日は模擬面接だった。
面接ではいままでの自分のこと、そしてこれからのことを自分の口で伝えなくてはならない。大人への通過儀礼的な難しさを感じている。
いままでのことを振り替えろうとすると、
考えたくない気持ちがつよくなってしまう。
自分を責める気持ちやネガティブな思いが体中を支配しそうになる。これがダークサイドの力か。
そんなときはあまり抵抗しないほうがいい。
余計な力が入るとさらにそのパワーが増える。ぐっすりと寝て忘れよう。どうせ忘れることはないし、ネガティブの力を意識しながらできることをやればいい。調子が悪いときはある。
信じることが挫けそうになる。
たしかなこととして過去の事ばかりに目がいく。受け止めながら、前向きに行動するだけだ。洋服や一人暮らしをまずはご褒美に。言い知れぬ絶望感と孤独感はこうやってことばやらにしていけばいい。言い知れぬエネルギーともいえる。
河合隼雄さんも言っていた気がする。
自分も責めるもう一人の自分。その自分も正義感が強くエネルギッシュなだけなのだ。自らのことを信じているからこそもっとできるのではと考えてついつい責めてしまう。付き合い方はそれぞれ。
自分とはなにか(タモリの教え)
講演大王という番組でタモリが話していた内容。
自分とはなにか。
人は自分とはなにかということを考えるときに2つの軸をもうける。
今現在での横の繋がりと、過去や未来という縦の繋がり。
横の繋がりでは今のことで、
私とは家族がいて、友達がいて、仕事があって、趣味にこれをしてという要素である。
過去や未来というのは、私の先祖は医者で、子供は社会人になりという要素である。
これら縦と横の様々な糸の網目をもって、
わたしとはなにかを説明するのが一般的である。しかし、こうした糸はあやふやであり、それらがほんとうにあるのか、ないのかは非常に曖昧である。友達はいなくなることもあるし、もちろん仕事も同じではないかもしれない。先祖や子供だってそれぞれ偶然に巡り合わせたものである。
いずれもわたしとはなにか、を考える要素にはなっても決定的なわたしに迫ることができない。
なぜこのようにわたしとはなにかということを考えるのか。
キエルケゴールは、わたしとは精神である、
精神とは自由である、自由とは不安であるといった。
つまりわたしとは外から決められることができず内面的に自由に決められる存在であるから、不安定で、不安がつきまとうのである。
ひとは不自由を求める存在である理由がこれであり、差別を産み出す元凶にもなっている。わたしは何であるのかではなく、逆のアプローチ。何でないのかを決めるために、わたしとは違うものをたくさんつくる。
わたしは貧乏ではない、障害者ではない、年寄りではない、高卒ではないなど。しかしこれもおなじことである。
以上が、わたしとはなにか、に関するタモリさんの一部講演内容。
仕事を選ぶときにでもつきまとうこの不安はたしかにこの理由が大きいと感じる。
大学時代、わたしと向き合い、自由に決めていい存在であることを考えて多くの人とたくさんのことをすべきだったかもしれない。
いまそれを行えて感謝している。
たしかにそとに規定できるものはない。
精神的に自由に考えられるわたしという存在はメディアである。フィルターである。
外ということに自ら働きかけて、また
自己に戻る。
短歌を担ぐ
内定が決まり幾つかの選考を乗り越えると社会人が始まる。一人で食べて寝ているだけでは社会人とはいえない(そりゃそうだ)。
ゲームや動画だけでは時間がありすぎる。
英語の勉強も2,3時間。
穂村弘さんの本はおもしろい。
短歌がおもしろい。
短歌って言葉の流派みたいなものか。
言葉のもつ質感に注目して使う作法。
言葉を投げたり引っ張ったり、くっ付けて爆発する様子を見て笑ったり驚いたり。
小さく使って泣いたり。
人間は脳味噌が大きくて超ハイテクコンピューターなので使いたくなる。
短歌をよむことはすぐにできる。
筋肉トレーニングと同じ、どこでも出来てほとんどタダ。
谷川俊太郎さん俵万智さんとか斉藤斎藤?さん?くらいしか知らないけど読んでみようかな。
谷川さんのものは読んだことがあるが、自伝を読んで興ざめして以来読まなくなってしまった。遠くの宇宙を連想させるものから異性関係という、すこしむずむずするものまで。
現代というキーワードが入ってしまった、
何の目的もなくいい加減で格好つけた雰囲気のものがすき。